2008年 02月 12日
●気持ちが寛大になる作曲って、なんだ?! |
緊急速報!
初期KENSOのドラマー、現在は作編曲家として活躍中の山本治彦氏の
ソロアルバムについては、昨年ここで紹介したが、ライブが決定したそうだ。
「Look for Nostalgia Harukichi Yamamoto」の発売記念
2008 5月17日(土)
山本はるきちのライブ「ルック バラードナイト 東京」
場所は「南青山 マンダラ」です。
山本 はるきち Vocal. Keyb. etc.
江口 正祥 Guitar
チープ 広石 (Guest)Sax.
And More Player ???
詳細は、またお知らせします。
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毎日寒い日が続いているが、ここのところ創作意欲が高まり、仕事を終えて
帰宅し、家族と夕食をともにした後に作曲用のシンセに向かうことが多くなった。
音楽室のエアコンの調子が悪いため、まるで外出するようにたくさん着込んで。
歯科大を卒業したころ、すなわち25年くらい前には毎晩深夜まで作曲して
いたことを思い出す。
新横浜ワークショップにいらした方には、私の青春の彷徨をお話ししたが、
本来なら新米歯科医として研修すべきあの時期、私の優先順位第一位はKENSO
だった。「KENSOの音楽を世に問う!」という純粋な気持ちもあったし、
有名になりたかったし、功名心も虚栄心もいっぱいだったはず。
別に自己弁護するつもりはないが、若者には虚栄心も功名心も幾分必要かも
しれない。40歳、50歳にもなってあまり虚栄心が強いのも考えものだが、
(そういう人はいるけどね。酒の席で隣に座られると面倒この上ない人)
若者だったらinferiority complexをエネルギーに変換することもー
ー私がそうだったようにーーその人の心がけ次第で十分可能だろうし。
逆に、若い頃から努力もせずに2チャンネルとかで匿名で他人の悪口言って
“見せかけの溜飲下げ”なんかしてたら当然だめだろうけどね。
自分の発言に責任を持つことは社会人として最低限必要なわけだから。
失敗をし、その責任をとることでしか学べないことって多いし。
さて話をもどすが、20代の頃はそうやって「プログレっていうのはとにかく
曲がよくないとダメなんだ」という根拠のない思い込みに促されて、
毎晩毎晩作曲していた。
「KENSO SECOND」「KENSO(3rd)」「SPARTA」あたりの曲は
ほとんどそうやって書いていた。
「夢の丘」の頃はちょっと様子が変化した。
KENSOが村石くん、三枝くん、光田健ちゃん、とメンバー
チェンジしたり、歯科医院を開業したり、岡山大学に通ったりと今に通ずる
多忙、睡眠時間を削るしかない日々がやってきた。
岡山大学に通う新幹線の中(これは往復8時間あったから結構はかどった)、
研究室の脳波計の前(笑。笑っちゃいけないが、旧式の脳波計の記録針が
記録紙の上をシャカシャカ動く音はスティーブ・ライヒの音楽のようで触発された)、
学位審査の面接試験会場の待合室で緊張を緩和するために、などなど
様々な状況で曲を書いた。
それから子供が生まれ、、、、、、まったく時間がなくなった。
経験された方はお分かりだろうが、夜泣きがあったり、帰宅すると
妻は育児で疲れ果て、こどもは元気いっぱい「あ、パパ、遊んで!!」と
抱きついてくる。
深夜まで積み木にブロック、絵本読み聴かせ、リビングにジャングルジムが
あった時期もあったな〜〜。なんで夜九時に私はジャングルジムの中にいる?
ある意味シュールな風景。でも、実際は泥臭い現実。
子供をお風呂に入れて一緒に
ベッドに入るとこっちもグタっ!
「キティちゃん人生ゲーム」なんてものを頻繁にやった時期もあって、
キティちゃんの住んでいるところ、好きな食べ物、お父さんの職業、
得意な料理まで言えてしまう元KENSOのリーダーであった。
(まさか95年にシルバーエレファントで復活できようとは夢にも思わなかった。
これはホント)
子供は親の都合も考えずに突然病気になる。
そんなバタバタした日々も経験した。
当時の日記を読むと「今日はDeep Purple IN ROCKを20分だけ
聴けた、やっぱ良い!」などと書いてある。
ヘッドホーンで大音量でロックを聴いていると、あれ?こんなところに
鳴き声なんて入っていたかな?、、、、、、
あ!!、我が子が激しく泣いているではないか!
それはそれは貴重かつこの上なく楽しい日々でもあり、また
作曲どころではない日々でもあった。
そんな中でも当時の五線紙ノートには一年で数小節ではあるが、
曲を作った跡があり、KENSOが活動しようがしまいが、
曲を作ることで自分のアイデンティティを保とうとしていたのかも
しれない。
もうこうなると「私という生き物の生態」だという気がしてくる。
きっと文筆家にも作品として発表するかどうかなど考えずに、
「書かずにはいられない」瞬間があるんだろうな。
そして子どもも大きくなって、勉強やら読書やら友達とのメールやらで
夕食後の家族団欒もそこそこに自分の部屋にこもるようになり、、、、
お父ちゃんも、、、、「じゃあ、曲でも作るかな」となってきたと、
こういう側面もあるのだ。
人生、やってみないと分からない。
25歳の頃と同じように曲を作り、30歳のころと同じようにシーケンサーに
曲をできたところまで打ち込む。
なんか昔とあまり違わないように感じるが、、、やはり体力が落ちたのは
如何ともし難い。
一通り打ち込み終わって、「じゃあ最初から聴いてみようか」と
シーケンサーで曲を再生するが、、、、、気づいたらヘッドホーンをした
ままシンセの前で寝ていたということもしばしばある。
今の私には功名心もおそらく虚栄心もほとんどないと思う。
「この曲を世に出さずに死ねるか!」という切迫した気持ちにもならないから、
自分をアクセレイトするのは「いかに自己表現をするか」ということに尽きる。
自分でも気づかない自分の中にある何かが、作曲することで顔をのぞかせる
瞬間があって、それはおそらく若い頃にはなかったか、あっても
「すげえ曲を書いてやるぜ」という意気込みにかき消されていたかも知れない。
長く創作活動をやっていると、よほどの大天才でない限り所謂マンネリに陥ったり、
「ああ、この手法、前にもやったよな」と気持ちが落ち込むことがあるのでは
ないか。でも、例えばパット・メセニーのような同時代の最高峰の才能が
作り出した音楽を聴いていても、
「なんかこの和音の解決の仕方、初期の頃と似ているな〜〜」など
と感じることはままあるわけで、それを個性と呼んでいいのかどうかは別として、
私程度の才能であれば、しかたない、そのままGO!するしかないのであろう。
でも、やはり楽しい。
何もないところから曲ができてゆくのは実に楽しい。
曲を作り始めると、通勤中にもあれこれ曲の展開を考えながら歩行したり、
電車を待っている間も充実している。
「あそこのリズム、三連符にしようか?」
「あのつなぎのメロディ、ドミ〜よりレミミ〜〜のほうがいいかな?」
何日も解決しなかった部分が、横断歩道を渡っている最中に突然ひらめいたり
する。ああ、正解はここに用意されていたのか。
電車の中で大股広げて座ってケータイに見入っているチャラ男にも、
酒臭い息を車両内にまき散らしながら自慢話に花を咲かす酔っぱらいどもにも、
作曲期間は寛容になる私。
だって、こんな愉しみ、私にはあるんだもん。
曲ができないと、というか曲を作る気にならないとなんか調子悪い。
昔からそうだ。
1982年の「KENSO SECOND」1991年の「夢の丘」2002年の「天鵞絨症綺譚」
そして2006年「うつろいゆくもの」と、全力出し切った後の私は音楽的には
抜け殻だ。ライブまではなんとかテンションを維持するが、
曲のストックなどまるで無い。
次はどうしたらよいのか途方に暮れた、何度も。
しかし、こうして少しずつでも曲ができ始めると
「あ、次の作品ではこういうことをテーマにしたらどうだろう」とか
「こういう手法を実験的にやってみようか」
などと少年時代ほどでは勿論ないものの、非日常に浸りきる時間が生まれる。
歳をとって失ったものもあれば、歳をとって初めて見えてくるものも
あるのが分かって来た。
ひとことで言えば音楽の深さだ。
自分の音楽を深めるという点においては、まだまだこれから
やらなければいけないことが沢山あることに気づかさせれている。
私がひとりの時間に静かな気持ちになりたい時に聴くCDがある。
それはスペインの巨匠/パブロ・カザルスの演奏する
バッハの「無伴奏チェロ組曲第一番〜第六番」。
歯科大時代に初期KENSOのフルート奏者、矢島史郎さんから紹介された
深くて静かな、それでいて情熱がほとばしる、音楽の中の音楽。
そうした素晴らしい芸術に少しでも近づけるように、これからも
一歩ずつ。
さて、今年のKENSO LIVE が8月にあることは既にお知らせしたが、
具体的な告知を2月末に本HPにて行う予定だ。
今年のKENSOをお見逃しなく。
友人の石黒彰氏にも
「KENSOみたいなバンドであれだけお客さんを集められるって
驚異的だよ」と言われたが、本当にみなさんには感謝しています。
いっしょに良い感じで歳をとりましょう!
さて、「朱に交わればRED」あと一歩で完成だ。
やるぞ〜〜〜!!!
朝6時、窓の外は、、、、雪。
by kenso1974
| 2008-02-12 11:31